名古屋高等裁判所 昭和25年(ラ)17号 決定
原決定は本件仮処分申請の被保全権利の疏明たる、基本協約書(疏第壱号証)には協約当事者の署名の欄に、タイプライターを以て「トヨタ自動車工業株式会社社長、豊田喜一郎」「全日本自動車産業労働組合トヨタコロモ分会執行委員長、弓削誠」のその名下に同人等の印章が押捺されているが自署がないから労働協約としての効力を及ぼさないとして本件申請を却下している。
然れども、抗告理由
第一点 労働組合法第十四條は必ずしも自署を要求するものでなく、同條の署名とは自署又は記名捺印を以て足る。
このことは、
(イ) 極東委員会十六原則第一項の(ニ)に「労働條件を維持し改善するため、労資協約を締結することを奬励する」労働組合法第一條、労働基準法第二條等の趣旨に鑑み成るべく労資労働協約の締結により労働関係の平和を保つことが法律の趣旨である、從つて労資当事者双方が有効なりとして記名捺印をした労働協約を成るべく合理的に有効に解釈しなければならない労働法の根本精神を無視している。
(ロ) 中央労働委員会に於ても本條の疏明は自署以外記名捺印をも有効として取扱つている。
(ハ) 少数説ではあるけれども、法務府民事局第六課長平賀健太氏も自署に限ると解すべきでなく、記名捺印を含むものと解している。
(ニ) 仮に労働組合法に於ける協約としての効力が生じないとしても労働協約としての当然の効力を否定することはできない。
(ホ) 我国社会の多年の慣例は捺印に重点をおいているから、これは慣習法というべく殊に慣行を重んずる労働法の分野に於ては一層強い理由となる。
(ヘ) 商法中署名すべき場合に関する法律(明治三十三年法律第十七号)、手形法第八十二條、小切手法第六十七條は右慣行を考慮して記名捺印を以て署名に代へる旨、又は署名は記名捺印を含む旨規定している。
かくの如く第三者たる取引関係に於て最も影響の多い法分野に於ても記名捺印を以て足るのに労資双方が愼重に揉みに揉んで締結したる労働協約が記名捺印で無効とする理由に乏しい。
(ト) 労働法第十四條署名を以て自署に限るとなす説は、労働協約の作成を愼重ならしむる趣旨とか成立の爭を防止する趣旨となしているから本件労働協約に於ては当事者双方が愼重に締結したもので何等その成立に付て爭なくこれを以て無効とすることは立法趣旨そのものを否定することになりはしないか、「茲に余りにも木に竹をつないだ感がある。」
(チ) 本件仮処分申請事件の口答弁論に於て被申請人会社はこれが成立と有効とを認めて爭はなかつたのである、然るに自己の不都合なる事態が生じ協約が守れなくなつたときに際会して後にその無効を主張することになつた、これは記録による禁反言(民事訴訟法第二百五十七條参照)の法理に反する。
(リ) 被申請人会社は單に自署すれば足り、抗告人の申入に対して締結に爭なき本件基本協約に頑としてその自署を拒んでいるのである、これは信義誠実の原則に反し、このことの特に強調せらるる労働関係の平和を紊するものである。
第二点 以上の如き抗告人の主張に対しては原決定は何等之を摘示することなく、又これに対する判断を逸脱している、これは民事訴訟法第二百七條、同法第百九十一條に違反する。
依つて原決定は失当にして本件申請を却下したのは不当である。
右抗告する。
当裁判所は判断する。
原決定は抗告人主張の基本協約及び覚書は当事者の記名捺印はあるがその自署がないから労働協約としての効力を生じない。從つてこれが有効なることを前提とする本件仮処分はその理由がないというのである。これに対し抗告人は労働協約には必しも当事者の自署を要せず記名捺印で足るという見解の下に抗告理由第一点においてその法律上の意見や少数学者の見解等を展開しているのであるが当裁判所もこの点について原審と同様に考えるから抗告人の主張を採用しない。
なお一、二の点について補足を加えるならば抗告理由第一のニの点については、
当事者の署名のない協約は單なる契約としての効力を生ずることはあり得ようが個々の労働契約を拘束する労働協約としての効力は生じない。もしそうでないとするならば労働組合法第十四條の労働協約に当事者の署名を必要とした條文は無用に帰することになる、そして使用者と労働組合との單なる契約からは使用者が箇々の労働者を解雇することを阻止することはできない。
チの点については禁反言の法理も労働協約でないものに労働協約の効力を持たせることはできない。リの点については基本協約に使用者が自署を拒んだのは結局労働協約が有効にできなかつたことである。使用者が労働組合側の要求に基く労働協約を締結すると云いながら終にこれを締結するに至らなかつたとするならばその使用者の不信行爲は責めらるべきであるがその不信の責を問うのは別にその途があるのであつて、これが爲めに労働協約が成立したことにはならない。
つぎに抗告理由第二の点については民事訴訟法第二百七條によつて準用せられる同法第百九十一條によれば決定には事実及び爭点と理由とを記載しなければならぬが事実を裏付けるための当事者の法律上の意見や学説先例等を一々列挙しこれを論難する必要はないのであるから論旨は理由がない。
その他原決定には違法の点はない、よつて本件抗告はその理由がないからこれを棄却する。
(裁判官 中島奬 茶谷勇吉 白木伸)